高野山は、西行が仏道と歌道の両修行に勤しんだ真言宗の聖地でもあります。久安5年(1149)、入山。一度目の奥州の旅から帰って後、その4、5年後、32才〜33才のこと。ここから約30年にわたる西行の高野山時代がはじまる。その間、絶えず各地を往来し、春は吉野の桜を訪ね、都にも頻繁に出かける。高野山では、広い村内に片隅に小さな庵を結んで、ひそかに暮らしていたらしい。
《高野に籠りたりけるころ、草のいほりに花の散り積みければ》
《散る花の 庵のうえをふくならば 風入るまじく めぐりかこはん》訳 桜が風に舞い散って、庵の屋根を花で葺いたように降り積もったならば、その花びらがもう風に吹き散らされないように、周りを囲ってしまいたい
歌を詠むことが、仏道修行に値するものだったようです。
《一首詠み出ては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ》訳 自分は一体の仏像を造る思いで歌を一首詠む。必要なことばを探し、真言(呪句)を唱えるつもりで呻吟する。
《我れ此の歌によりて法(悟り)を得ることあり》 |