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眺めのよいビーナスラインから松本方面にくねくね移動。今晩の宿、「割烹の宿桃山」です。以前は、山を利用してイチゴの観光農園をしていたそうで、今は割烹旅館。名残りでイチゴジャム、イチゴ酒を作っているそうです。

豪華な夕食です。お品書きを取り忘れました。

いちじくの胡麻和えとイチゴ酒 八寸、梅煮など 松茸、鱧、なす、もみじ麩の
お吸い物
刺身 何だ? 塩釜。魚のもようあり。
木槌で割ります。 大きな鯛が入っていました。4名様分とのこと。 小ぶりの石焼ステーキ
冬瓜をくり貫いた中に野菜、えび。 アナゴのにぎり 天ぷら。小さく見えるが、皿が大きいのである。
きのこ、青菜 ご飯、香の物 イチゴシャーベット、牛乳羹
露天風呂 蛙発見。 庭が立派です。
おやき
朝食です。半分バイキングのような形式。外の景色を見ながらいただきます。おやきはもちろんのこと、長野の伝統的な料理がありました。
本日天気悪い。国宝松本城へ。入場料600円。

<創始>松本城は戦国時代の永正年代初めに造られた深志城がはじまり。戦国時代になり世の中が乱れてくると、信濃府中といわれた松本平中心の井川に館を構えていた信濃の守護小笠原氏が、館を東の山麓の林地区に移し、その家臣らは林城を取り囲むように、支城を構えて守りを固める。深志城もこの頃林城の前面を固めるために造られる。その後甲斐の武田信玄が小笠原長時を追い、この地を占領し信濃支配の拠点とする。その後天正十年(1582)に小笠原貞慶が、本能寺の変による動乱の虚に乗じて深志城を回復し、名を松本城に改める。

<天守築造>豊臣秀吉は天正十八年(1590)に小田原城に北条氏直を下し天下を統一すると、徳川家康を関東に移封。この時松本城の小笠原氏は家康に従って下総へ移ると、秀吉は石川数正を松本城に封じる。数正・康長父子は、城と城下町の経営に力を尽くし、康長の代には天守三棟(天守・乾小天守・渡櫓)はじめ、御殿・太鼓門、黒門、櫓、塀などを造り、本丸、二の丸を固め、三の丸に武士を集め、また城下町の整備をすすめ、近世城郭としての松本城の基礎を固める。天守の築造年代は、康長の文禄二年から三年(1593-4)と考えられている。(パンフレットより)

本丸防衛の要、黒門 矢を放つための小さな窓。 スライドして閉まる窓。
いろいろな瓦 天守二階。木造。
堅牢な柱が支えています。
石落は石垣を登ってくる敵を防ぐ工夫で、狭間と同じように鉄砲を使っての攻撃も可能な武備。 厚い壁に矢狭間、鉄砲狭間があわせて25ヶ所あり。 城の中は鉄砲(火縄銃)の博物館になっています。
急な階段もあって五重六階天守閣(日本最古)へ到着。

花頭窓(かとうまど)。禅宗寺院の建築に見られる形式で、中国におこり日本に鎌倉時代に入り、城郭建築に広がる。

 

歩いて5分ほどの重要文化財旧開智学校へ。日本でもっとも古いとされる小学校のひとうt。明治9年に建てられ、その後移築されてここへ。和洋の建築技法を融合した擬洋風建築の代表。入場料300円。

 

 

勉強机の上部分は割れており、しまっているものが取り出せるようになっている。

オルガン横には燭台があり、暗い時ろうそくをともし、電気が通るようになった後は花をかざったそう。

扉にはタイルがはめられている。 時間割はきっちり詰められている。  
テニス(ガットは鯨の何か)、
アイススケート下駄
幼児教育にも力を入れていた」。フレーベルの二十の恩物
水害に見舞われた時の写真、
明治天皇御巡幸の絵。
レトロな教材。植物図と獣類一覧。小学入門教授図解。横文字は右から左へ。
現在の小学生が開智小学校を描いて賞を取ったもの。よく描けています。
教室のように。 かるた販売中。 隣は図書館。
長野県宝松本市旧司祭館。県内の西洋建築においていちばん古い。布教活動をしていたクレマン神父の住居。 寒かったのか、どの部屋にも暖炉があります。

松本城そばの蕎麦やでお昼です。団体さんが入っていったので、無理?かと思いましたが

すんなり入店でき、すぐ食べられ、味もおいしかったです。

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