豪華な夕食です。お品書きを取り忘れました。
<創始>松本城は戦国時代の永正年代初めに造られた深志城がはじまり。戦国時代になり世の中が乱れてくると、信濃府中といわれた松本平中心の井川に館を構えていた信濃の守護小笠原氏が、館を東の山麓の林地区に移し、その家臣らは林城を取り囲むように、支城を構えて守りを固める。深志城もこの頃林城の前面を固めるために造られる。その後甲斐の武田信玄が小笠原長時を追い、この地を占領し信濃支配の拠点とする。その後天正十年(1582)に小笠原貞慶が、本能寺の変による動乱の虚に乗じて深志城を回復し、名を松本城に改める。
<天守築造>豊臣秀吉は天正十八年(1590)に小田原城に北条氏直を下し天下を統一すると、徳川家康を関東に移封。この時松本城の小笠原氏は家康に従って下総へ移ると、秀吉は石川数正を松本城に封じる。数正・康長父子は、城と城下町の経営に力を尽くし、康長の代には天守三棟(天守・乾小天守・渡櫓)はじめ、御殿・太鼓門、黒門、櫓、塀などを造り、本丸、二の丸を固め、三の丸に武士を集め、また城下町の整備をすすめ、近世城郭としての松本城の基礎を固める。天守の築造年代は、康長の文禄二年から三年(1593-4)と考えられている。(パンフレットより)
花頭窓(かとうまど)。禅宗寺院の建築に見られる形式で、中国におこり日本に鎌倉時代に入り、城郭建築に広がる。
歩いて5分ほどの重要文化財旧開智学校へ。日本でもっとも古いとされる小学校のひとうt。明治9年に建てられ、その後移築されてここへ。和洋の建築技法を融合した擬洋風建築の代表。入場料300円。
勉強机の上部分は割れており、しまっているものが取り出せるようになっている。
オルガン横には燭台があり、暗い時ろうそくをともし、電気が通るようになった後は花をかざったそう。
松本城そばの蕎麦やでお昼です。団体さんが入っていったので、無理?かと思いましたが
すんなり入店でき、すぐ食べられ、味もおいしかったです。